気になる言葉を辞書で調べてみました

アクセスカウンタ

zoom RSS 森喜朗氏が日本体育協会会長に再選

<<   作成日時 : 2007/03/29 00:32   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

森喜朗
森 喜朗(もり よしろう、1937年(昭和12年)7月14日 ‐ )は、日本の政治家。衆議院議員。元内閣総理大臣(第85代・第86代)。石川県能美郡根上町(現在の能美市)に、根上町長を務めた森茂喜の長男として生まれる。
石川県立金沢二水高等学校時代はラグビー部のキャプテンとして活躍。北陸三県大会で準優勝(当時はこの大会で優勝すると全国大会に進出できた)などの実績を残した。その縁もあり、父の知人であった当時のラグビー部監督への縁故をフル活用し、スポーツ推薦を受けて早稲田大学第二商学部(夜間部)に入学。ラグビー部に入部するもわずか4ヶ月にして胃カタルにより退部した。
その後早稲田大学雄弁会に入り、政治家を志すようになる。大学卒業後は水野成夫の口利きで産業経済新聞社に事実上無試験で入社。入社試験はとうに終わっていたにもかかわらず、“自分には約束があるんだから”と強引に内定を得たという(入社後は、初めは日本工業新聞に勤務し、のち移籍)。
その後、今松治郎秘書を務めた後、1969年に衆議院選挙に初出馬で初当選。選挙運動中に、近隣の家の火災に遭遇し、決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。この行動(暴挙ともいわれる)のため、地元での人気が上がり、当初泡沫候補扱いだった新人が当選にいたったという。ちなみに、この選挙では同じ選挙区(旧石川1区)で竹下派七奉行の一人・奥田敬和も初当選しており、のちに二人のライバル関係は「森奥戦争」と呼ばれるようになる。
当選後は今松の属していた福田派に入会。福田内閣では内閣官房副長官に就任し福田を補佐、1983年第2次中曽根内閣では文部大臣として初入閣し、以後自民党文教族の実力者として実力を付ける。しかし1988年のリクルート事件で2度目の入閣間近という時に一時謹慎を余儀なくされる。
福田派を継いだ安倍派では三塚博、塩川正十郎、加藤六月と並んで安倍派四天王の一人に称され、次代のリーダーへの地歩を固める。安倍死去後の三六戦争(三塚と加藤の後継者争い)ではいち早く三塚を支持。それからは党政調会長、通商産業大臣、党幹事長、建設大臣、党総務会長と重要役職を次々と歴任。1998年には三塚に派閥の継承を求め、森派を結成した。
2000年(平成12年)4月5日、3日前に脳梗塞で倒れ緊急入院した小渕恵三首相の後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。このときの連立与党は自民党、公明党、保守党であり、メディア等では「自公保」と略称した。
森の首相就任は、当時の自民党の有力議員五人組(森喜朗本人、青木幹雄、村上正邦、野中広務、亀井静香)が密室で談合して決めたのではないかと疑惑を持たれている。「森さんでいいじゃないか」の発言があったと報道された。五人組の1人である村上正邦は後に週刊新潮に発表した手記できちんと党内の手続きを踏んで自民党両院議員総会にかけて総裁を選出したので密室で決めていないと反論している。


日本体育協会
財団法人日本体育協会(にほんたいいくきょうかい:英語表記はJapan Sports Association、略称は日本語で体協、英語でJASA。「日体協」も自称するがこれはあまり使われない)は日本のスポーツ競技連盟、協会及び各都道府県の体育協会を統括する団体。


会長
・会の事務を統一して管理し、その会を代表する人。「生徒会会長」
・会社で社長の職を退いた人などの就く名誉職。


再選
再度選挙すること。また、選挙で同じ人を再び選出すること。再び当選すること。




テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
森喜朗氏が日本体育協会会長に再選 気になる言葉を辞書で調べてみました/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる